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2010年06月02日

龍馬についての考察〜後編

昨日では語り尽くせなかった龍馬についての考察の後編です。

昨日に引き続き以下桃色の文字は“まーにゃ”の報告書です。

C西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。

最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。

D下士の身分について、龍馬も常々矛盾を感じていたと思います。『新しい国をひらくのが私のライフワークだ』と手紙にも書き、蝦夷(北海道)の開拓を実現したいと考えていましたが、そうした差別のないテリトリーを創る意味もあったでしょう。
また、文久3(1863)年6月29日乙女宛の手紙には『土佐の芋ほりともいわれぬ居候に生まれて、一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり』(芋ほりのような身分の低い郷士の二男坊という、兄に養われている僕でも、やり方によっては国の改革はできる。)と言っています。これも「身分は低くても頑張ってやれば・・・」というバネの力を表しています。実際にこのことが慶応3年6月、【船中八策】の発表として実現しました。これは、あの手紙を書く少し前に、越前福井で聞いた【国是七条】を龍馬なりにまとめ直したもので、《武力を使わず幕府が政権を朝廷に帰すこと》で新政府を作ることができれば、国力の低下を招くことなく、外国から侵略されることなく、新しい時代を迎えられることを示しています。「なんとしても内乱を避けないと、外国が入り込んでくる・・・」ということで、西郷や木戸も一旦は龍馬の考えに任せました。
この【船中八策】は【大政奉還建白書】となり将軍に提出され、慶応3年10月13日、将軍慶喜は《無条件で政権を朝廷に返す》ことを発表。ここで幕府は終止符を打ちました。
後藤象二郎は、この動きの中心となった人物で、龍馬も将軍へのルートは土佐藩を通らなければならないことを充分承知していましたので、慶応3年2月、長崎で会談した時、亀山社中のメンバーには「勤王党を弾圧した男(後藤象二郎も含む)を斬れ」という意見もありましたが、龍馬は「将来のことを話し合うべきだ」として、これを説得しました。 勝海舟の『江戸城無血開城』で、江戸が戦火から免れたのも、この考え方が西郷に理解されていたからでしょう。

E○龍馬の手紙より
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、非常に細やかな心配りのできる、行き届いた心の持ち主ではないかと想像します。
○龍馬と関わった人物より 
薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問 坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答 過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」
ということです。 
龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることもあったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。
○生まれ育った環境より
龍馬の性格には、生まれ育った環境にも大いに関係あると思います。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。
このような龍馬の性格を生かし、
・優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめきがある。
・やさしさ:「争い」よりは「和」。ひとへの思いやりを持つ。
・目標を立て実現させる。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)
につながったと思われます。



私たちが学生時代から持っていた龍馬のイメージは倒幕の志士であり、北辰一刀流免許皆伝の剛毅果断、豪放磊落、新時代の発想の志士というイメージでした。



ここで“まーにゃ”は触れていませんが、私には以前より諸説こそあれど龍馬暗殺の瞬間に解せないというか不思議なことがふたつあります。



まず、何故帯刀していなかったのか?北辰一刀流の達人である龍馬がこの瞬間に帯刀していたら果たしてこのような結果になっていたでしょうか?



暗殺の日が龍馬自身の誕生日だったのは偶然なのか?



これは私だけの疑問ではなく、特に何故帯刀していなかったのか?は学生時代には友人と語り尽くしたものでした。



31歳という若さでこの世を去ります。大政奉還の直前の1867年のことです。



明治維新後の日本は、倒幕のため、今後の日本の行く末のために奔走したとされる龍馬がイメージした日本になっていたのでしょうか?



勿論、その答えは龍馬しか知りません。
posted by core at 06:00 | Comment(0) | 日記
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